頬杖日誌

彼は思いのほか読書に没頭しているらしく、松葉杖の音にも、勿論それよりも曖昧な私の「気配」にも全く気づいていない御様子。さびしいな。少しだけ、驚かしてやろうかな。
いいや、やっぱり止めておこう。私がこうした悪戯を試みたときはいつだって失敗しちゃって、上手くやりおおせた試しなど一度もない訳だし、何より私は清淑な女の子だもの。様になっちゃいないわね。
そうしてくだらない事を思索しているうちに、彼、ふっと顔をあげて、私の姿に気づく。

私より一つ年上の十九歳。大きな目とすらっと通った鼻筋が特徴的で、実年齢よりもかなり幼い顔つきだ。耳をすっぽり覆い隠した蓬髪は不恰好だが、それがどうにもいじらしい。年上でも、私にとっては可愛い「男の子」というわけだ。

「あ、葉ちゃん、きてたんだ」
彼が少し驚きつつも、努めて平静を装った風な顔で言う。そこには、世の男の人たちが例外なく無意識に発する、「獣みたいな害意」は微塵も感じられない。
「ええ、お散歩のついでにね」

「君はいつだって『ついで』じゃないか。今日はポニーテールかい?葉ちゃんは顔が小さいからどんな髪型でも似合うねえ」
彼がいつものようにミルクティーを手渡してくれながら、からかい半分で私を褒めた。
こんな小慣れた冗談も、彼の自信の無さを隠匿するためのものだと私は知っていた。寒がり屋さん程、薄着で外出したがったりするものです。ドン・キホーテの強がりを、邪険に扱う事はできないわ。
「ありがとう。私の可愛らしさは自分自身が一番分かってるわ」
精一杯の嫌味のない笑顔を浮かべながら冗談を返した。別に、下心なんかじゃありません。優しい人には、優しくしなきゃいけないのです。

ベンチに腰を下ろしながら、彼に尋ねてみる。
「貸してあげた本、さっきまで読んでたみたいだけれど……どう?面白いでしょう?」
「実はね、もう読み終えてて二周目だったんだ。悲しい話だね。笑いと、涙と、最後は……このお話の主人公に葉ちゃんを重ねてみたけれど、君は少し逞しすぎるね」
弱々しく顔を歪めて、卑屈な笑顔を浮かべながら言った。彼の目には、心なしか涙の影が見え隠れしている。
───いいえ、私だってあなたと同じ。純然たる弱者なんです。か弱い、悲しい女なんです。だから、人と話すときは無害な笑顔を一生懸命に拵えて、努めて気丈に振る舞うだけなのです。
わあっと泣き出してしまいたい気持ちになりました。

「それよりさ、怪我の御様子はどうなんだい?あんまり早く退院しちゃうと寂しいから、できれば深刻であって欲しいんだけどね」
口ごもる私の顔を見ないまま、とても柔らかい語調で話頭を転じてくれた。
自動販売機のすぐそばに植え付けられている百日紅数株。その隙間から差し込んだ初夏の木漏れ日が、彼の頬を赤く照らす。その光は、この蒼天の全てを集約したといって大袈裟でない程美しく見えた。福音。聖火。虹。天啓。
今度は、嬉しくて泣きだしてしまいそう。

生まれて初めて、敢えてぶっきらぼうに、「そう、それは残念ね」と一言だけ。ああ、優しい人は、やっぱり好きです。