ほんの少しの短文でちょっとだけ顧みてみる
潮騒
生温かい風が吹き、磯の香りとタバコの煙が鼻腔へと吸い込まれてゆく。澄み切った空、鴎の鳴き声。防波堤の向こうには、陽光に照らされ金色に光る水面が広がっている僕の心持ちを皮肉るように、景色のすべてはこれ以上ない程清々しかった。
コンクリートで舗装された道に目を落としながら、ゆっくりと歩町に数軒しかないコンビニへと向かい、投げやりな昼飯を選ぶ。 財布の中身が、もうこういった生活は続けられない現実を教えてくれる。
一体何週間経っただろう。次第に知り合いからの電話を無視する回数は減ってゆき、母親は何もしない僕に愚痴を零すことすら諦め、毎日無言で仕事へと向かう。
続き物 その2
「うーん……」私の思案を遮るように、男が興奮気味に続ける。
「すごい気持ちいいからさ!それに、ほら、いつだかいってたじゃん。『自分の体をなるだけ汚したいんだ』って」
脱法ハーブについての知識は、友人から聞き齧った程度で、一知半解な状態だったが、そんな事はどうだっていい。
私は、薬物に対するイメージに慄然とする事もなく、男の目論見を邪推してみても、薄目で伏せた表情を崩すまでには至らなかった。
「で、こうやって10秒くらい肺に溜めて吐き出すんだ。タバコをふかすのとおんなじ。って、タバコ吸わないんだっけ?」
私の小さな嘘すらずっと見抜ずにいる、間抜けな男が見本を見せる。
「一分くらいで効き目がでるよ」
成る程。男の言葉通り、吸い込んでから少し経った後に実感する。
足は地上から離れ、目は見開き、増幅された刺激を受容する。全身の皮膚に、微弱な電流が走る。
普段と違う身体で、普段の思考回路のままの私は、手早く下着を脱ぐ。
男は少し虚ろな容態だったが、私の行動を視認するなり、私にそっと口付けする。
そして、いつにも増して、執拗に私の身体を愛撫する。耳、口、首すじ、乳房、そして陰部……
数日ぶりの餌にありついた犬のように、自らの吐息にも、涎にも頓着せず、執拗に、なんども舐めずる。
ハーブの効能の所為か、自然と表情が強張り、何故だか泣きそうになってしまう。
「そろそろかな」男は確認し、私の身体の中に深く侵入し、数多の不純物で澱んだ私の内部を、何度も攪拌する。
心地の良い痺れと浮遊感に満たされ、不本意にも嬌声を漏らしてしまう。
男の顔が歪み、気味の悪い表情を見せる。
私は、男を眺めていた。
今しがた、独りよがりな欲求を発散したばかりの男を。
普段の私ならば、何も感じず、冷めた表情のまま即座に帰ろうとしていただろう。
「もう帰る?」男が問いかける。
「終電には、間に合うからさ、ちょっとだけ話がしたいんだ……」
……言いたかった言葉を飲み込んで、首を縦に振る。
新しい身体を手に入れた代償として甘受した寂しさを、人恋しさを紛らわしたかった。けれど、不器用な私は、身体を重ねる他にその方法を知らない。
玄関においてあった、小さな少女の人形を一瞥する。人形は、何か言いたげな視線で私を見つめる。
再び視線を外した私は、男のアパートをひとり後にし、一雫だけ涙をこぼした。
続き物 その1
阪神電車、大阪難波駅、スターバックスコーヒーを横切り、24番出口の階段を駆け上がる。
だんだんと構内のけたたましい音が遠くなり、18時の陽光が斜め上から網膜へと、容赦無く照射される。
処女作
これで何度目だ、また僕は真っさらな原稿を置きっ放しにしてしまう。
小説を書こうと思っても、書き出しすら思いつくことができない。
そもそも、どうしても書きたい主題がないのだ。
僕は、これ以上不毛な時間を過ごすまいと、書斎を後にしリビングで一喫する。
ふとTVを点ける。いつもならそのけたたましさに辟易するだけなのだが、僕はこの有害なだけの箱が映し出す映像に齧りついていた。
それは、報道番組だった。十代の子どもが、同年代の子どもをリンチした後殺すという、センセーショナルで凄惨な事件についての特集だ。
僕は不本意ながら、報じられた犯人達を羨望の眼差しで見つめていた。
僕は、所謂「一般家庭」に生まれ、幼い頃からとりたてて飢えも不自由も感じた事はなかった。
だけどそれは、見方を変えればただの「凡庸」だ。
いつまで経っても原稿の一枚もかく筆できないような、僕の「がらんどうさ」の一因である。
有害な箱に映る報道番組は、この非現実な事件の主人公達の特殊な生い立ちや、人格を推察し、紹介している。
僕は、彼らに狂おしいほどの嫉妬を覚えながら、側にあった果物ナイフで自らの手首を乱暴に切りつける。
あらかじめ数本の線をたたえた手首に、また新たな線が加わった。この歪んだ不細工な線の数だけ、僕は僕自身の人格を否定し、自己嫌悪に浸ってきた。
新たに手首に加わった線が口を開け、僕に向かって、聞き慣れたいつものセリフを吐く。「君は空っぽな人間だね」