夏希

ベランダの柵に身を乗り出し、夏を眺めていた。背の高いビルをてらてらと照らす炎のような夕焼け。生暖かい風に揺れる緑黄の木々の葉。道を行き交う浴衣姿の人たち。茹だるような三十五度に汗を垂らしながら、それらの光景を眺めていた。

夏は私が生まれた季節。まだ小さな頃、空を仰いでぐんぐん伸びる向日葵が好きで、毎年この季節になるのが楽しみで仕方がなかった。
大人になってからもそれは変わらなくて、浮かれて海にでかけたり、何処かの河川敷で綺麗な花火に目を輝かせたり、毎夏楽しい思い出を重ねてきた。

それが今年はどうだろうか、そんな思い出を作る事はもはや叶わず、気づけば、毎晩身体を売る為だけに外出する日々を送っていた。唯々憂うべき藍色の夏休み。枯れて黒ずんだ向日葵。

数ヶ月前に「嫌気がさした」という身勝手な理由で仕事を辞めてしまった事が堕落の始まりだった。
その後ろめたさからだろうか、友人達ともすっかり疎遠になってしまって、その寂しさを紛らす為に手を出した援助交際。けれど会う人は皆お金以外何もくれなかった。

財布に汚いお金が増える度に、少しずつ全うな人間から遠ざかってしまう。
心の充実が、夏への希望が、また一つ泡沫のように消え失せてしまう。

この夏が終わったら死のう。今ではそんな事をずっと考えている。

夏は私が生まれた季節。
私はベランダにしゃがんで、子どものように泣きじゃくった。

艶笑滑稽譚

正直、大して期待などもしていなかったのですが、Kが呼び出した三人の女の子たちは、三人ともかなりの上玉でした。

うち二人は明るい金髪と煌びやかなアクセサリーのよく似合う、とても派手な風貌でしたが、もう一人はというと、全く対象的。
さらさらとした黒髪に薄いメイク、淡いパステルカラーのワンピース。とてもしとやかな佇まいでした。しかも、大きな目と艶やかな唇が特徴的で、三人の中でも抜群の美人。

私は、彼女に一目惚れしていました。

改めてみんながテーブルに着座し、Kが乾杯の音頭を取ったあと、すぐに金髪二人組がまくし立てます。
「Kと同じ職場なんだ」「んじゃ地元もここ?」「年はいくつ?」「ずっと彼女いないの?」「結構イケメンなのにぃ」「可愛い顔してるのに」「もー一杯飲んじゃお」
……既にしこたま飲んでいた私は、呂律も回らず、「えー」とか「うーん」とかでしか応える事もできず、殆ど会話にもなっていませんでした。
それを見ていた黒髪淑女さんはというと、上品に酒を飲みながら、時折Kと一緒にクスクス笑ったりしています。

その笑顔の清淑さたるや、いつまでも眺めていたくなるような……

しかし楽しい時が経つのはあっという間で、ダーツをしたり、Kの無茶振りに応えたり、また他愛のない話をしていると、すぐに夜は明けてしまいました。

ああ、とても満足な夜を過ごせたな……などという事を一人考えていると、Kが突然、思いもかけなかった言葉を発します。
「あ、煙草買いにいかないと。ちょっ、ちょっと君ら二人で待っといて。どうせ帰りはタクシーだし」
私は一瞬、冷や水を掛けられたような思いでしたが、Kと金髪令嬢二人組のニヤついた顔を見て理解しました。
下心というものは、それはもう、とっても、隠しきれないものですね。

半ば強制的に二人きりにされた私たちでしたが、……まぁ「色々」ありまして、それから、数十分もしてからK達が帰ってきて、茶化したような表情で言います。
「で、どうでしたかお二人は?」

私は一言、「……タバコを一本くださいな」

艶笑滑稽譚

私は、バーなどという小洒落た店で飲むのはこれが初めてでした。そもそも、普段から酒など殆ど嗜んでいないのですから。
いつもなら仕事を終えたあとは真っ直ぐ家へ帰り、風呂に入り、飯を食べて、それからすぐに就寝してしまうわけです。

とっても高そうな酒が幾つも並んでいます。ボーッと眺めていると、Kがとりあえず、と注文しました。「俺はウィスキー。こいつには……なんか飲みやすいカクテル作ったげて」
どうやらKはこの店の常連で、マスターとも顔馴染みらしい様子です。

「しかしホント面白い思いつきだね。あっ、一本吸う?」タバコを取りだします。
そらもう、これから火遊びを覚えるわけですから、タバコくらいは嗜んでおかないと。妙に滑稽な手つきで吸ってみせます。ゲホッ!ゲホッ!うわっ、むせ返ってしまいました。
それを見たKは、涙を浮かべながら一人大笑い。仕方ないでしょう、「これから」覚えるわけですから。

「あー、面白い。もう、最高」
「それより、お酒を飲んで、それで、次はどうすれば?」
「カシスオレンジ」を飲みながら、Kに訊きます。あら、甘くて、中々の飲み易さです。
「そーいうとこだよね(笑)まぁ、もうちょっとしたら馴染みの女のコたちがくるんだよ。今から楽しみだろ?(笑)」

女の子……
二十三年、ずっと真面目に生きてきたわけですから、といっては言い訳にもならないかも知れないですが、私には殆ど無縁でした。挨拶や事務的な会話の他に、気の利いた話なんてできる筈もありません。
それを知ってか知らずか、Kが言います。「とりあえず今のうちに酔っとけよ」
こくと頷き、カシスオレンジをぐいっと一気飲みしてしまいます。

Kのいう「馴染み」の女の子達がきたのは、それから二十分程経っての事でした。

艶笑滑稽譚

私は生まれてこの方二十三年、僭越ながらも、他の誰よりも生真面目に人生を歩んできました。犯罪の類は無論のこと、背徳に対しては人一倍敏感でしたし、これも僭越ではありますが、勤務態度も、きっと、同期の中で一番評価されてるであろうと自負します。
とにかく、「誠実」のみを信条として生きてきました。

しかし最近、真面目だけでは生きていく上でなんの取り柄にもならない事に気づき始めました。上司の中にも、勤務態度を評価しつつも、「融通が利かない」などと私を批判する者もいます。「朴念仁」ともいうそうじゃないですか。
二十三歳にもなってようやく気づいたのです。いやはや、何とも恥ずかしい話です。

このままではいけない!私は、今まで拠り所としていたこの性格を、いっそ矯正してやろうと思い立ちました。つまり、ここで一つ、火遊びを覚えてやろうという事です。
その為には手慣れた人に手伝ってもらうのが一番早いでしょう。蛇の道はへび、といっては失礼でしょうが、私の職場には、おあつらえ向きの同僚が何人もいました。

そのうちの特に遊び慣れている一人に、(ここではKと仮称しましょう。)恥を偲んで、意を決して、頼んでみます。
Kは少し驚いたようなそぶりでしたが、すぐにけろりとして「別にいいよ。面白そうじゃんそれ!」と、乗り気で言い放ちました。

それからの話は早いもので、すぐに、「キマジメクン改造計画」(Kが面白がってつけた名前です)が始動しました。

「まずはとりあえず一杯飲もう」と、計画にしてはなんとも見切り発車なKの提案で、私達二人は職場のそばにあるダーツバーへやって来ました。

或る孤独な青年の体験記としての合法ハーブ 下

鬱屈で散々たる生活に俺が望んでいたのは、こういった安易で直感的な快楽だけだった。

全身に、それも爪の先まででろんとした薄い皮膜が貼ったような感触を覚る。局部麻酔を少し優しくしたような、心地よい痺れだ。
そして問答無用に脳髄が覚醒する。いつもの「どうせ何も変わらない」現実に対する無気力とか、欲求のない自分に対する嫌気とか、社会不適合に対するコンプレックスとか、とにかくそういったネガティブを全て忘れられるのだ。このときばかりは。

しかしこういった痲薬はやはり厄介で、時としてグルーミーな感情を恐怖へと増長させてしまう事もある。錯乱し、嘔吐し、酷ければ気絶してしまう事もある。

俺は、このバッドトリップを何時だって一番危惧している。恐怖に支配されてしまわぬよう、近所で借りてきた安っぽいアクション映画を鑑賞する。
内容は一切頭に入ってこない。はじめはひたすら閃光と轟音のリズムに合わせて、瞬きしたり、口をパクパクさせたりしていたが、そのうちそれにも飽きてしまう。

手持ち無沙汰になった俺は、立ち上がってすぐに家を出る事にする。もちろん明瞭とした目的などある筈もなく、ふらふらと街灯も消えた路地を歩き、店の灯りをみてニヤついたり、思い出したように一人で踊ってみたりする。ああ、これではまるで阿呆みたいだ。

それでも俺は、露ほども冷静な思考に立ち戻ろうとはしなかった。たった一人で「ハーブ中毒者」として狂っているのが楽しかった。気ちがいでも、普段の無気力で鬱然としている自分よりいくらかましだ。

とにかくそうして俺が就寝したのは、無意味な外出を終えて家へと帰り、また阿呆のようにスナック菓子を頬張って、アルコール中毒者のように水をがぶ飲みした後だった。

翌日、起きたときにはもう夕刻になっていて、開け切った窓から、斜陽が静かに部屋へと注ぎ込まれていた。

或る孤独な青年の体験記としての合法ハーブ 上

一仕事終えたデリヘル嬢を乗せた黒塗りのセダンが目の前の道路を走り過ぎ、盛りのついた2匹の猫が互いに求愛の鳴き声をあげるをの、ベランダに設置されていたエアコンの室外機に腰掛け眺めていた。
窓を開け、寝室に戻る。ついさっきまであった愛おしくもインスタントな温もりの気配はとうに消え失せていて、TVの明かりだけが唯一真っ暗な部屋で虚しく点滅している。

小さな溜息の後、数日前に後輩から譲り受けたばかりの合法ハーブのパケを取り出した。決して酷い依存に陥っているわけではない。知り合いにはいつもそう嘯いていた。
けれどそれが嘘になりつつあることにも、最近気づき始めていた。
(身体的な離脱症状を自覚したことがないというのは確かだが。)

ハーブを一掴みお気に入りの吸引パイプに落とし、ライターでゆっくりと底を熱する。忽ち特有の甘い香りが部屋中に立ち込める。

静かにパイプを咥える。チタンの冷んやりとした温度が、滑らかな刺激となって口辺に伝わる。すぐさま甘美な煙を肺臓へと溜め込むと、それは生理機能によってさらに血液へと取り込まれる。


星の王子様

先ほどから何度も執拗に確認していた時計が、ようやくこの退屈で長ったらしい懲役期間の終わりを告げる。店長からの一言で、私は正式に釈放される。
タイムカードを素早く切り、制服から普段着へと着替えた私の心模様は、この後の予定とは裏腹に仄暗いものだった。

一歩外にでると、途端に夜の寒風が私の身体を芯から冷やす。

街中にいた人達は、自分とはまったく別種の動物のように思えた。
大きな笑い声をあげて、能天気な幸せを共有し合う若者たち。肩がぶつかっても反応もせずに通り過ぎる中年。泣き喚き、駄々を捏ねる小さな子ども。それをあやす若い母親……

みんなが私に無関心だ。
当たり前の事なのに、ダメな私にとってはそれがどうにも寂しい。ううん、考えるだけ無駄なことだ。私は反芻する。
綯い交ぜになった感情のループを振り切ろうと、一生懸命目的を思い出し歩みを早めるが、どうにもうまく前向きになれない。

けれどその甲斐もあって、私の身体だけはいつの間にか目的地に辿り着いていた。
付き合い始めて数ヶ月の彼の、小さな家。そのすぐ前に佇む公園。いつもの待ち合わせ場所だった。

ベンチに腰掛け、彼に電話をかける。人影が疎らになってくれたおかげで、どうにか無意味な疎外感が和らぐ。
けれど、今度は本当に一人っきりの時間だ。待ちぼうけする対する不安がこみ上げてくる。このダメな癖も、いつまで経っても矯正できない。

しかしそれも今日に限っては杞憂だったようだ。電話越しの声を聞くまでもなく目の前の灯りが消え、彼が忙しない姿を見せてくれた。

小走りで私の元へと駆け寄るなり、息を切らしながら無邪気な表情で提案する。星を見に行こうよ。
その言葉は彼の表情にあまりにもお似合いで、驚きと笑みがこぼれてしまう。

ダメな私の甘ったるい恋。ありきたりな幸せだけが、子供のような私を救ってくれる。